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院長コラム

不妊治療は「トラウマ」になり得るのか?PTSD・複雑性PTSDを解析した最新研究から考える心の体験

不妊治療は「トラウマ」になり得るのか?PTSD・複雑性PTSDを解析した最新研究から考える心の体験
INDEX 目次

不妊治療はしばしば「つらい」「苦しい」と表現されます。しかし、それが医学的な「トラウマ反応」とどのように関係しているのかについては、これまで十分に検討されてきませんでした。

今回ご紹介する論文は、不妊や不妊治療に関連する体験が、PTSD(心的外傷後ストレス障害)やComplex PTSD(複雑性PTSD)とどのように関係しているのかを解析した、非常に重要な研究です。

1.衝撃のデータ:不妊治療患者の41%に「臨床的なトラウマ症状」

この研究では、英国・アイルランドの不妊患者590名を対象にオンライン調査が行われました。対象者の多くは女性で、平均年齢は37歳。約半数が子どもを持たず、65%が現在も妊娠を希望している方々です。

論文の冒頭(Abstract)では、非常に衝撃的な結果が示されています。不妊関連のつらい経験を持つ患者のうち、9%がPTSD、32%がComplex PTSD(複雑性PTSD)の診断基準を満たしていました。

つまり、合計41%が「臨床的に意味のあるトラウマ症状」を持っていたことになります。ここで特に注目すべきは、「Complex PTSD」の割合が非常に高かったという点です。

Complex PTSD(複雑性PTSD)とは?

通常のPTSD症状(フラッシュバックや過覚醒など)に加えて、感情のコントロールが困難になる、強い自己否定に陥る、人間関係の障害を伴うなど、より複雑で慢性的なトラウマ反応のことです。

論文内の考察(Discussion)でも、著者らは「不妊治療患者の主なトラウマ像はComplex PTSDだった」と述べています。これは、不妊治療のつらさが「一時的なもの」にとどまらず、長期間反復する喪失や失敗によって、患者様の自己価値観そのものに深く影響している可能性を示唆しています。

2.不妊治療全体に omnipresent(常に存在)する「苦痛」の構造

論文に掲載されている図(Figure 1)では、不妊患者が経験する「苦痛」の構造が非常に分かりやすく整理されています。


その中心にあるのは、「Suffering and distress are omnipresent(苦痛と苦悩は不妊治療全体に常に存在する)」という考え方です。

その周囲を取り囲むように、以下のような要素が配置されています。

○ 反復する治療の失敗、流産
○ 治療そのものの侵襲性(身体的な負担)
○ コントロールの喪失(自分の努力だけではどうにもならないもどかしさ)
○ 冷たい医療対応、医療トラウマ

さらにその外側には、社会的孤立、自己否定、人生の意味の喪失などが描かれています。

つまり、この研究は不妊治療を「単なる医療行為」としてではなく、「人生全体へ影響を及ぼし得る壮絶な体験」として捉えているのです。

実際に、論文内では患者様自身のリアルな声も紹介されています。

○ 「人生がトンネルの中のようだった」
○ 「自分の身体を憎むようになった」
○ 「子どもを見るのが苦しくなった」

これらは、日々の診療のなかでも私たちが決して見過ごしてはならない、非常に深い苦痛の叫びです。

3.「何回治療したか」よりも「どれだけ深く傷ついたか」

ここで重要なのは、「repeated accumulation of distress(繰り返し積み重なる苦痛)」という概念です。

不妊の診断から始まり、採卵、移植、陰性結果、流産、再治療、そして場合によっては治療の終了に至るまで、これらが単発のイベントとしてではなく、累積的に患者様の心へ影響を与えていると著者らは考察しています。

また、Complex PTSDと強く関連していたのは、反復流産や、治療終了後も子どもがいないこと、強い子どもへの希望などでした。つまり、「何回治療を重ねたか」という回数よりも、「どれだけ深く喪失を経験したか」という心理的な深さのほうが、トラウマの発症に重要だったのです。

4.医療者側の対応がトラウマを悪化させているという現実

さらに、私たち医療従事者が非常に重く受け止めなければならない結果も示されています。

調査に回答した患者の61%が「医療者の対応によって苦痛が悪化した」と回答しているのです。

具体的には、以下のような点が患者様のトラウマ体験を悪化させる要因として挙げられていました。

○ 冷たい説明や流れ作業的な対応
○ 共感の不足
○ 長い待ち時間や情報不足
○ 事務的なエラー

つまり、「不妊治療そのものの負担」だけでなく、「医療機関でどのように扱われたか」が、患者様のトラウマに直結している可能性があるのです。

それにもかかわらず、多くの患者様が「医療者へトラウマや心のつらさを相談しにくい」と感じていることもデータ(Figure 2)に示されています。本当に深く苦しんでいる患者様ほど、その痛みを言葉にできず、孤立してしまっている可能性があります。

まとめ:これからの生殖医療に求められるもの

もちろん、不妊治療を受けるすべての患者様がPTSDになるわけではありません。しかし、長期にわたる不妊、反復する流産、過去のトラウマ歴などを持つ患者様においては、想像以上に深い心理的影響が起こり得ることをこの研究は証明しています。

これからの生殖医療は、卵子数、胚盤胞率、妊娠率といった「数字のデータ」を追い求めるだけでなく、「患者様が今、どのような心理体験をしているか」を医療者が深く理解し、共感的に関わる時代に入っています。

当院としても、技術的な最善を尽くすことはもちろん、患者様の心に寄り添い、これ以上傷つくことのないような温かい医療対応を徹底してまいります。一人で抱え込まず、つらいときはいつでもスタッフにお気持ちをお聞かせください。

【出典】
Human Reproduction
Experiences of infertility-related traumatic events and their association with symptoms of Post-Traumatic Stress Disorder (PTSD) and Complex PTSD
2026; Vol.41 No.5: 772–785
doi:10.1093/humrep/deag030

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